「早く登場しすぎた疫学者」今村 均(ギターラ、ボーカル)
2021年5月の月刊モンターニャスに、環海航路新図と日記を著した、地元の医師、廣瀬保庵の事を投稿しました。
今回はその折り少し触れていたやはり地元(現山梨県)の医師、橋本伯寿の「断毒論」の事を書きたいと思います。
市川で生まれ、長崎で蘭学を学び、天草で痘瘡(天然痘)の治療を見聞して、痘瘡、麻疹、梅毒、疥癬の四つを伝染病と見破り、患者の隔離による感染防止、患者の衣類の洗濯による消毒の徹底、外食や集会参加の遠慮、稽古事への登校自粛など、現在のコロナ禍に通じる感染症対策書「断毒論」を1810年(文化七年に書き上げました。
天然痘、梅毒等の伝染説を唱道した、避痘隔離法の法令化を市川代官所ならびに甲府勤番支配役所に請願した書中で、医学館の疫病教授池田瑞仙の説を批判した事から「断毒論」の板木押収、出版の差止めを命ぜられます。
当時幕府は、神田佐久間町に在る「医学館」で漢方医学生を教育し、これも甲州藤田村出身の医学者、広瀬元恭が広めた牛痘種痘以前は漢方で治療する方針を取っていました。
市中では疫病が広まると御祈祷や呪いで厄祓いをすることが当たり前の時代でした。
人心を惑わすと言う言いがかりにも近い批判で伯寿を抑え込もうとしました。
後に板木は返却され新たに出版されます。
現在は三版が残されて国会図書館、県立博物館等に保存されています。
それが神田古本市で発見され、今は我が家に在ります。
大変貴重な本なので、市川のお宝として大切に保存していきます。
環海航路日記も長野県上田市の元庄屋のお蔵から発見され、これも我が家にやって来ました。
去年から今年に掛けて貴重本二冊が手に入りました。
いずれも本来なら市川に有って当たり前の本だと思います。
故郷に奇跡的に帰って来ました。
巡り合わせに感謝しています。